紺碧の向こう

卒論は新海誠論でした

『すずめの戸締まり』は『君の名は。』『天気の子』に続く三部作だった

前エントリに引き続き、『すずめの戸締まり』について。ネタバレを含みます。
 
君の名は。』で隕石を落とし、『天気の子』では東京を海に沈めた新海誠が、とうとう東日本大震災を描きました。
 
あの日も、どの家庭でも「いってきます」「いってらっしゃい」と家の扉を開け、当然のように帰ってきた「ただいま」「おかえり」と扉を閉める。誰もが無意識に思っていたはずです。
ところがそんな日常は、あの日以降、突然に崩壊しうるものへと変わってしまいました。
自然は気まぐれに人を生かし、気まぐれに人を殺します。猫のように。個人の気持ちなど意に介さずに。
 
『すずめの戸締まり』の主人公・鈴芽は、災厄に対して勢いよくぶつかっていきます。劇中前半でそれを見た草太からは「君は死ぬのが怖くないのか」と問われ「怖くない」と答えます。
震災で孤児となった鈴芽にとっては、自分の命はたまたま助かったものであり、もっと言えば「あのとき母親と一緒に死ぬべきだった」存在なのかもしれません。
それでも草太との旅の中で、自分や親と同じ世代の女性たちの優しさに触れ、また椅子の姿となっても自分の使命を全うしようとする草太の懸命さに触れ、「死ぬのは怖い、もっと生きたい」と考えを新たにします。これは大きな成長です。
そして鈴芽は映画終盤で、常世へ通じる後ろ戸をくぐり、被災した当時の幼い自分に出会います。(常世は四次元空間なんですね。)
母親の死を理解し、途方に暮れる幼い自分に対して鈴芽は語りかけます。その内容は当時の自分が欲しかったことばであり、扉を閉じる旅の中で感じてきた飾らない心情です。
 
君の名は。』公開前に、被災地を訪れ茫然とした新海誠の姿がテレビで放映されたのが私はずっと気がかりでした。3.11以降、新海誠はずっと胸を痛めてきたのだと思います。
君の名は。』では、瀧は三葉の身体を借りて過去に戻り、隕石落下によって亡くなったはずの多くの命を救いました。
『天気の子』では、帆高は人柱である陽菜の命を救い、結果として関東平野は止まない雨に沈むこととなります。
これらの作品を通して、新海誠は震災とどう向き合うべきか、考え続けてきました。
災害を防ぐことはできないが、せめて予見できたら多くの命を救えていたのではないか? 子どもの努力では災害は防ぐことはできない、それでも大人が「大丈夫」と言いながらなんとかやっていくことが肝要なのではないか?
(これらはあくまでもシミュレーションなのに大声で怒る大人が多いのは不思議ですが。)
そして『すずめの戸締まり』ではこれまで直接触れてこなかった東日本大震災に真正面から向き合い、「死を悼み、喪失を抱えて生きる」ことの尊さを描いています。(前エントリで述べたように『星を追う子ども』と共通するテーマです。)
 
『すずめの戸締まり』で新海誠は震災に関する思いを全て出し切ったはずです。「震災三部作」と言ってもいいかもしれません。
…ということを小説版を読んだ時点で思っていたのですが、公開初日に放映された『スッキリ』の番組内で「三部作の終わり」と明確に言っていて「ありゃ、言われちゃった」と思いました。