紺碧の向こう

卒論は新海誠論でした

【すずめの戸締まり】ヒロインはロン毛泣きぼくろお兄さん【登場人物解説】

前エントリに引き続き、登場人物について。今回は草太さんです。

『すずめの戸締まり』の情報が発表され、宗像草太のビジュアルが公開されたときの私の感想は「これまでにないキャラが来ちゃったぞ」でした。こんな色っぽいキャラクター、これまでの新海誠作品にはあまりいなかったんですよね。泣きボクロにバチバチまつ毛、肩までの黒髪。細いけどヒョロヒョロしていないいわゆる細マッチョ。こんなの好きになっちゃうよ。

 

【注意】以下ネタバレ

「閉じ師」として全国をまわっているという草太さん。映画冒頭で椅子に姿を変えられてしまいます。

(人外に姿を変えられるストーリーといえば、ディズニー映画の『美女と野獣』が有名ですが、私は見たことがありません。)

そして椅子にされたことで草太さんは「要石」として災厄を封印する役目を背負うことになります。

前エントリで新海作品の「巫女系ヒロイン」について言及しましたが、草太さんは「異質なものとの繋がりを司る」「犠牲になる存在として選ばれる」「本人の意思と関係ないところで全てが決まり、進行していく」という巫女系ヒロインの系譜といえるでしょう。『ほしのこえ』のミカコも『君の名は。』の三葉も同じです。

 

男女平等の時代、男がヒロインでもいいですよね!!

【すずめの戸締まり】すずめは非巫女系ヒロイン?【登場人物解説】

ストーリーやテーマについてはもう少し掘り下げたいとも思うのですが、今回からは『すずめの戸締まり』の登場人物について書いていきたいと思います。

 

【注意】本エントリでは、『すずめの戸締まり』以外の過去の新海誠作品の登場人物について言及しています。

 

これまでの新海誠作品のヒロインたちは、「特別な力」を持っていることが多かったんですよね。私は彼女らを「巫女系ヒロイン」と呼んでいます。

ほしのこえ』のミカコは何故か国連に選ばれてパイロットとして宇宙に行ったし、

雲のむこう、約束の場所』のサユリは夢を通して別の世界に接続してしまうし、

星を追う子ども』のアスナは父親の形見の力で地下世界の音が聞こえるし、

君の名は。』の三葉は文字通りの巫女の力で少し未来の別の人間と入れ替わるし、

『天気の子』の陽菜さんは祈ることで天候を操作できるし。

 

秒速5センチメートル』の明里や『言の葉の庭』のユキノ先生は巫女的パワーは持ってはいなかったものの、それぞれ「世界の秘密みたい」な魅力で貴樹や孝雄を魅了します。

 

以上に述べたような巫女系ヒロインと比べると、『すずめの戸締まり』の鈴芽は家庭が複雑ではありますが、これまでの新海ヒロインと比べるとかなり普通のJKです。

日本を縦断しながら草太の代わりに扉を閉めるという重大ミッションをこなしていくことにはなりますが、これは「鈴芽が巫女的なパワーを持っているから」ではないんですよね。天岩戸伝説が名前の由来ですが、ストリップダンスするわけではないし。後ろ戸をくぐったことがあるからミミズが見えるというのは偶然で。もっと言えば他に誰かいれば別に鈴芽じゃなくてもよかったんですよ。

しかし鈴芽は行動力の塊です。スマホ1つでどこにでも行ってしまいます。(保護者の立場からすると本当に恐ろしいですね。でもまあフィクションなので…)

何が鈴芽をこうも突き動かしたのでしょう。災厄を解き放ってしまった罪悪感? それはあまり感じませんでした。当初は「目の前に困った人(草太さん)がいるから」程度だったかもしれません。しかし旅を通じて、先々で出会った人々に感謝し、「その土地で暮らしていた人々の残留思念」に触れ、草太さんの懸命さを間近で見て、使命感を強めていきます。扉を閉めて、鍵をかける。巫女的パワーなんて関係ねぇ。

そもそも「巫女的パワー」って「本人の意思とは関係なく周りを動かす力」なので、便利ではありますが割と他人任せの力なんですよね。そんなパワーを持たず行動する鈴芽は非「巫女系ヒロイン」というより非「ヒロイン」だったのです。

 

つまりヒロインは草太さん、君だ。

【ネタバレ注意】『すずめの戸締まり』の椅子はなぜ脚が1本欠けているのか

『すずめの戸締まり』には脚が1本欠けた椅子が登場します。この椅子は主人公・鈴芽が母・椿芽に手作りしてもらったというポジティブな記憶と震災のネガティブな記憶を思い出させるアイテムです。

そして旅の青年・草太が謎の猫・ダイジンに姿を変えられてしまうものです。(公式イケメン設定なのに劇中ではほぼ椅子の姿なのが可哀想で愛おしいですね。)椅子に姿を変えられた草太は、初めのうちは身体を動かすのに苦労します。(コミカルな動きが可愛らしいですね。)また一度眠りに着くと目覚めるのに時間がかかります。(椅子なのにすごい寝相で寝る草太さんはとてもキュートですし、キスで姿を戻そうとする鈴芽ちゃんはいじらしいです。)

しかし旅を続けるにつれ、草太は身体を動かすのに慣れてきます。ジェットコースターのコースでダイジンとアクロバティックな鬼ごっこもできるようになります。

ただ、それは同時に草太の精神が椅子に馴染み、「ヒトではないもの」「常世(死)に近い存在」に近づいていることを意味します。

 

東京で巨大な厄災・ミミズが今にも多くの命を奪おうとしているとき、草太は自分が無機物に姿を変えられた意味に気づきます。すなわち「かつてミミズを封印していた要石(ダイジン)の代わりに自分がなること」です。

鈴芽は草太を要石として常世にミミズを封印し、東京で巨大地震が起こるのを防いだのでした。めでたしめでたし。おい。

 

その後鈴芽は草太の育ての親、宗像羊朗を訪ねます。常世に行き、要石となった草太を救うためです。しかし宗像老人はそれを一度は否定します。

閉じ師の仕事は命懸けです。災厄との戦いで命を落としてきた者もいたはずです。それを物語るかのように病院のベッドに横たわる宗像老人の右腕は根本から失われています。

 

さてようやく本題です。鈴芽の椅子は何故脚が欠けているのか。

それは鈴芽を守ったからです。

本来なら鈴芽の命は震災で失われていてもおかしくなかったでしょう。それでも椅子を作った鈴芽の母親の愛の力が娘を生かしました。椅子の脚は鈴芽の命と引き換えになったのです。たぶん。(宗像老人も腕と引き換えに大事なものを守ったのでしょう。たぶん。)

 

旅の果て、常世に辿り着いた鈴芽は草太の代わりに「自分が要石になる」と言い出します。旅を通して自分の命を差し出しても守りたい存在になっていたのです。

その声はちゃんと神様(ダイジン)に届きました。

草太は人間の姿、ダイジンは要石としての姿に戻りました。そして鈴芽たちは要石で再度巨大なミミズを封印することに成功します。今度こそ本当にめでたしめでたしです。

 

何かを守るというのはとても大変なことです。ひょっとしたら自分が傷つくかもしれません。それでも守り守られ、傷つきながらも人は生きていきます。その象徴が鈴芽の椅子です。鈴芽は椅子の欠けた脚を見るたび、震災のことを思い出すでしょう。それでもきっと母親のような看護師を目指し、誰かの命を救うのです。

『すずめの戸締まり』は『君の名は。』『天気の子』に続く三部作だった

前エントリに引き続き、『すずめの戸締まり』について。ネタバレを含みます。
 
君の名は。』で隕石を落とし、『天気の子』では東京を海に沈めた新海誠が、とうとう東日本大震災を描きました。
 
あの日も、どの家庭でも「いってきます」「いってらっしゃい」と家の扉を開け、当然のように帰ってきた「ただいま」「おかえり」と扉を閉める。誰もが無意識に思っていたはずです。
ところがそんな日常は、あの日以降、突然に崩壊しうるものへと変わってしまいました。
自然は気まぐれに人を生かし、気まぐれに人を殺します。猫のように。個人の気持ちなど意に介さずに。
 
『すずめの戸締まり』の主人公・鈴芽は、災厄に対して勢いよくぶつかっていきます。劇中前半でそれを見た草太からは「君は死ぬのが怖くないのか」と問われ「怖くない」と答えます。
震災で孤児となった鈴芽にとっては、自分の命はたまたま助かったものであり、もっと言えば「あのとき母親と一緒に死ぬべきだった」存在なのかもしれません。
それでも草太との旅の中で、自分や親と同じ世代の女性たちの優しさに触れ、また椅子の姿となっても自分の使命を全うしようとする草太の懸命さに触れ、「死ぬのは怖い、もっと生きたい」と考えを新たにします。これは大きな成長です。
そして鈴芽は映画終盤で、常世へ通じる後ろ戸をくぐり、被災した当時の幼い自分に出会います。(常世は四次元空間なんですね。)
母親の死を理解し、途方に暮れる幼い自分に対して鈴芽は語りかけます。その内容は当時の自分が欲しかったことばであり、扉を閉じる旅の中で感じてきた飾らない心情です。
 
君の名は。』公開前に、被災地を訪れ茫然とした新海誠の姿がテレビで放映されたのが私はずっと気がかりでした。3.11以降、新海誠はずっと胸を痛めてきたのだと思います。
君の名は。』では、瀧は三葉の身体を借りて過去に戻り、隕石落下によって亡くなったはずの多くの命を救いました。
『天気の子』では、帆高は人柱である陽菜の命を救い、結果として関東平野は止まない雨に沈むこととなります。
これらの作品を通して、新海誠は震災とどう向き合うべきか、考え続けてきました。
災害を防ぐことはできないが、せめて予見できたら多くの命を救えていたのではないか? 子どもの努力では災害は防ぐことはできない、それでも大人が「大丈夫」と言いながらなんとかやっていくことが肝要なのではないか?
(これらはあくまでもシミュレーションなのに大声で怒る大人が多いのは不思議ですが。)
そして『すずめの戸締まり』ではこれまで直接触れてこなかった東日本大震災に真正面から向き合い、「死を悼み、喪失を抱えて生きる」ことの尊さを描いています。(前エントリで述べたように『星を追う子ども』と共通するテーマです。)
 
『すずめの戸締まり』で新海誠は震災に関する思いを全て出し切ったはずです。「震災三部作」と言ってもいいかもしれません。
…ということを小説版を読んだ時点で思っていたのですが、公開初日に放映された『スッキリ』の番組内で「三部作の終わり」と明確に言っていて「ありゃ、言われちゃった」と思いました。

【ネタバレ注意】『すずめの戸締まり』は『星を追う子ども』のセルフオマージュである

【注意】本エントリは新海誠監督の2022年公開『すずめの戸締まり』および2011年公開『星を追う子ども』のネタバレを含みます。
 
『すずめの戸締まり』は『星を追う子ども』同様、「行きて帰る物語」であり「喪失を抱えて生きる」がテーマとなっています。『星を追う子ども』の主人公・アスナにとっては初恋(?)の少年との別れ、『すずめの戸締まり』の主人公・鈴芽にとっては東日本大震災で亡くなった母親との別れと、大きさは違えどどちらも「喪失」であるといえるでしょう。
 
『すずめの戸締まり』で描かれる「常世」は、『星を追う子どもの地下世界アガルタの最深部・死者の魂の行き着く場所「アストラム」に非常によく似ています。青や紫に輝く銀河。どこまでも続く星空。新海監督にとっての「黄泉国」のイメージが、あの藍色の空間なのです。
さらに『すずめの戸締まり』終盤に、鈴芽が掘り起こした「すずめのだいじ(タイムカプセル)」の缶にはお菓子の名前のように「Agartha(アガルタ)」と書かれており、その箱の中には常世に行くための手がかりがあります。これは「常世=アストラム(黄泉国)」の裏付けでもあり、過去の新海作品を観てきた者にとってのご褒美でもあります。
また、今作に登場する「要石」の意匠は『星を追う子どものアガルタ世界のものと酷似しています。
以上のようなテーマと意匠の類似。このことから『すずめの戸締まり』は、新海監督が『星を追う子ども』をセルフオマージュしたものであると考えられます。
 
『すずめの戸締まり』を観た方は『星を追う子ども』を観るとより理解が深まるはず。(逆でも交互に繰り返し観ても楽しいです。)

おじゃる丸『わすれた森のヒナタ』で描かれた「せんそう」

気づけばいつの間にか前回のエントリから半年。
まあ大したアクセスもないし、アフィリエイトやってるわけでもないですし、いいんですけど。
入退院繰り返してつらいのはまともにアニメを消化できないことですね。

本当は前の続きを書こうかとも思っていたのですが、今回は別の内容で。

タイトル通り、2015年8月にEテレNHK)で放送された、おじゃる丸『わすれた森のヒナタ』について書きます。

【あらすじ(ネタバレ含む)】
夏のある晴れた日の広い草原で、おじゃる丸・カズマ・電ボらと小鬼トリオは、いつも通りおじゃる丸の持つ「エンマ大王のシャク」を巡る攻防(笑)をしていた。するとそこに、記憶をなくした少女「ヒナタ」が現れる。おじゃる丸は、ヒナタと共に、ヒナタの帰るべき家を探すことになった。
道中の森の中で、彼らは同じように記憶をなくした鳥「ビーちゃん」(体に「B」の字が書かれている)、亀の「ドンゾウ」(明らかにリクガメの体格なのにバタフライで泳ぐ)、謎の生物「ボンスケ」(黒いハンプティ・ダンプティのよう)と出会う。谷を越え、湖を渡っていくうちに、彼らは少しずつ、以前の記憶を取り戻していく。
数々の冒険ののち、彼らはとうとうヒナタの家を見つけだす。ヒナタの家の扉を開けると、周囲の風景が一変する。家屋は燃え、空には爆撃機が飛んでいる。その光景を見て、ヒナタたちは全てを思い出した。
ヒナタは、かつてあった「せんそう」による爆撃で、家族とともに命を落としていたのだった。ヒナタは死者の「魂」だったのである。
ビーちゃんは街に爆弾を落とさなければならなかった飛行機の「魂」だった。ドンゾウは、たくさんの人を乗せて海を泳ぎたかったが魚雷で多くの船を沈めることになった潜水艦、ボンスケは花火として鮮やかに散りたかったが、爆弾にされてしまったモノの「魂」だったのである。
彼らは、自分たちに起きてしまったことを全て忘れたいと流れ星に願った。そしてその望みは叶った。彼らはかつての記憶を全てなくし、これまで「森」で暮らしていたのだという。
記憶を取り戻した彼らは「いるべき場所に帰らなくてはならない」とおじゃる丸の前から消えようとする。おじゃる丸たちの後を追ってきていた小鬼トリオは、エンマ大王を頼り通信をする。おじゃる丸はエンマ大王に「『せんそう』とやらをなかったことにしてほしい」と頼む。しかしエンマ大王は「起こってしまったことをなかったことにすることはできない。自分にできるのは、『 せんそう』を起こした者どもをきつく叱ることぐらいだ」と言う。
おじゃる丸たちが困惑する中、ヒナタたちは消え(成仏し)てしまう。
草原へと戻ってきたおじゃる丸は、迎えにきたトミー老人に、かつてあった「せんそう」のことを教えてほしいと涙ながらに乞う。
【あらすじここまで】

戦後70年という節目の年に、このアニメは放送されました。

普段の放送の3倍ではありますが、約29分という短い尺に、大地丙太郎監督が子どもたちに伝えたかったことは全て詰め込まれていたように思います。

  • 「せんそう」はたくさんの人の命や夢を奪う、恐ろしいものである
  • 道具に罪はなく、使い方次第では善にも悪にもなる
  • 起こってしまったことは、元に戻すことはできない

おじゃる丸の対象年齢(小学生まで)の子どもたちにとって、史実をそのまま伝えることが「ためになる」わけではありません。順序立てて、少しずつ知っていけばいいことです。そういう意味で、このアニメは子どもたちが「せんそう」について触れるきっかけとして、非常に素晴らしい出来だといえます。

おじゃる丸の監督を放送開始時から務める大地氏は、コメディが得意な方だという印象が強いのですが、たまにトラウマになるくらいのシリアスをぶっこんでくるので困ります(褒め言葉)。10年ほど前ニチアサに放送されていた『レジェンズ 蘇る竜王伝説』を思い出しました。あれも、初回から4分の3くらいまではコメディだったのに、放送終了に向かうにつれどんどんシリアスになっていってつらかったです。しかし間違いなくネ申アニメだと言えるので、機会があれば是非ご覧いただきたいです。(再放送希望)